最果タヒさんの装丁をはじめ、広告、展示デザインなどを手がける佐々木俊さん。2020年JAGDA新人賞を受賞した。「理想の変な世界に近づけたら」と考え、仕事をしているという。
ネット上の作品を見て最初に連絡をくれた同世代の詩人・小説家の最果タヒさん
──JAGDA新人賞おめでとうございます。
ありがとうございます。僕はJAGDAに入会したのが今年で、初出品で運よく受賞することができました。今までは遠巻きに見ている感じでしたが、ここ数年、仕事にやりがいはあるものの自分の気持ちの中では停滞感みたいなものがあったんです。これまでの僕の仕事は、SNSなどネットきっかけが多かったから、仕事の内容もどちらかというとサブカルチャー的なものが多くて。それもずっとやっていきたいのですが、もっと規模を大きくしていきたい、環境の変化が欲しいと思って、もっと世間に自分を知ってもらう機会が必要かなと、JAGDA新人賞に応募しました。
──最初はWeb上につくったものを公開して、それを見た人から依頼が来るという流れが多かったんですね。
そうですね。就活では電通や博報堂など、いわゆる王道の代理店を受けたんですけれど落ちて、広告制作会社のアドブレーンに入りました。傍らに王道の道を進んでいる友だちがいるので、ある種のルサンチマン的なものがあったんです。でもつくるのは好きだったから、自主制作的にグラフィックをつくってネットに投稿していたら、海外の人からは「面白いものをつくっていていいね」という連絡が結構来て嬉しかったんです。けれど、日本の人からはありませんでした。その中で最初に連絡をくれた日本人が、同世代の詩人・小説家の最果タヒさんだったんです。
──最初が最果タヒさんだったんですね!
編集者の方から「最果タヒさんの詩集のデザインをしてほしい」と連絡があって。それが自分の中では大きな出来事で、2014年に彼女の詩集『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)で初めて装丁の仕事をしました。その依頼をもらったときは、僕はグリッツデザインで働く社員でした。社長の日髙英輝さんに内緒でコソコソと「コンビニ行ってきます」と外出して校正紙を受け取って、服の中に入れて持ち帰ってくるみたいな(笑)。実際はバレていたみたいですけれど、黙ってくれていたんですね。これをきっかけに多方面から仕事が来るようになりました。
いろいろな本屋さんに置いてもらえて、それを買う人がいて、それぞれの生活のものになっていく。それに感動して、自分の中にエンジンが入った感覚があります。そして、日髙さんからも「もう自分でできるんじゃない」という感じになって、30歳で独立しました。
社会が求めるものとは「別の解」を
──最果タヒさんのカバーデザインではどんなこと大切にされていますか。
最果さんとの最初の打ち合わせで「佐々木さんが良いと思うものをつくってください」と言われ、初のブックデザイン仕事でしたが、気負わずに挑めました。でも最初は、詩には物語やモチーフが存在しないから、何を手がかりにつくればいいんだろうと迷いました。今は、僕ができることは、詩集を読んで感じたことをそのまま絵にすることだと思っています。つまり…