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青山デザイン会議

平成インターネット広告を振り返る

須田和博、福田敏也、朴正義、森永真弓

急速に進んだインターネットの進化、メディアやデバイスの変化に合わせてインターネット広告も多様な形に発展を遂げてきた。平成が終わるいま、ネット広告の黎明期から携わる4名のクリエイターに集まってもらい、その変遷をたどった。

ネット広告はアウトサイダーだった

──インターネットが広告界に浸透し始めた頃、皆さんはどのような仕事をしていましたか?

須田:僕は元々アートディレクター、CMプラナーとして広告制作に携わっていましたが、2005年に博報堂にインターネット広告の制作局である「インタラクティブクリエイティブ室」が発足し、志願して異動しました。制作の友人からは「ネットに行って何するの?」「仕事あるの?」と言われたのをよく覚えています。でも、それが当時のごく一般的な感覚でした。

福田:博報堂インタラクティブカンパニーの前身となる「博報堂電脳体」という組織があって、立ち上げた時から参加していました。当時、いくつかの大企業が自社ホームページを作り始めていた時代。「インターネットは広告の場としてどう使えるものなのか」、その問いへの解を探すために「ペタろう」という広告型コミュニケーションツールやガチャポン型広告自販機「ガチャロボ」などのコンテンツ型広告装置を作って実証型検証みたいなことをしていました。

朴:「ペタろう」よく使っていました!僕はCG制作会社でプランナー、プロデューサーをしていたんですが、高額なマシンの数がリソースを規定する時代だったので、自分の企画をカタチにできる機会がなく、「何か作りたい!」と悶々としていました。そんなときに影響を受けたのが、「ポストペット」でした。完パケのCGの質感を競っていた時代に、ユーザー操作を起点にエンタメを作る仕組みに衝撃を受けました。それをきっかけにインタラクティブを主軸に取り組むようになりました。

森永:私は大学生の頃からプロダクションのインターンとしてホームページを作っていました。2000年代の前半はネット上にさまざまなジャンルを突き詰めているコミュニティがありましたよね。そうしたコミュニティでは、違う会社であっても仲間意識があり、コミュニケーションは活発に行われていました。

福田:あの時期のネット領域は「未開の地」だったから、誰もが新しい分野を開拓しようと動いていました。

朴:みんなで盛り上げようという意識が強かったです。僕はインターネット上で、複数の人が同じ空間を楽しめる「セカンドライフ」のようなマルチユーザーコンテンツに力を入れていました。会社の技術力は上がっていったんですが、全くお金にはなりませんでした。でも、活動を見てくださっていた電通の佐々木康晴さんに声をかけてもらって、A Pencil Oddeseyやdentsu design tankなど、世界に向けたインタラクティブ作品を作り始めました。

福田:とにかくトライ&エラーを繰り返すことに命を懸けていたね。その結果、カンヌライオンズやニューヨークADCのような海外広告賞でも注目されて、日本のインタラクティブチームが受賞の常連になっていったんです。

須田:当時CMの世界から異動したので、時間の制限なく、企画すれば実現できることに感動した記憶があります。また、当時CMはユーザー側の反応が見えないから反響が実感できませんでしたが、ネット広告はコメントがついたり、社内でも「褒める文化」があったりして驚きました。

グローバルスタンダードの浸透

須田:ネット広告のターニングポイントのひとつに、2008年から日本でも発売されたiPhoneがあると思います。それ以前の日本独自のネットカルチャーというカオスの花が咲いた時期と、それ以後のグローバルサービスの浸透が進んだ時期とに、明確な境目があると思います。

森永:iPhoneが登場した時は「ガラケーのほうがいい」と思っていましたが、次第に転換しましたね。そこからパソコンを用いる作り手と、モバイルでネットを使うユーザーが分かれていきました。広告会社にいる人はパソコンベースで考えているけれど、一般的にはモバイルサイトを触っている人が多いから、意図的にモバイルを触るようにしないといけなかった。

朴:PCベースのクリエイティブは2007、8年がピークでした。僕らはメンズ化粧品「AXE」のサイトを手がけていて、その頃は予算の90%をPC用に使っていました。モバイル対応は"おまけ"だったんです。でも、アクセスはモバイルのほうが圧倒的で、10倍の手間をかけているPC版は誰も見てないということを数字が証明していました。

一連の仕事が評価されて、カンヌをはじめ、たくさんのアワードも受賞し、時代は僕らの方にあると、もてはやされた時期もありましたが、すでにそのときには自分たちのいる土俵には未来がないと実感していたんです。もっと広い視点でインタラクティブデザインというものを考えるようにシフトしていました。

福田:2000年前半はパソコンベースのいいデザインを考えていたけれど、2008年頃に「そもそも、いいデザインとは何か」と軸が変わっていきましたよね。

朴:ユーザー管理が必要なコンテンツばかりを作っていた僕らにとって革命的だったのは、SNS各社がソーシャルグラフAPIを誰もが触れるように、オープンに公開してくれたことですね。コネクトするだけでユーザー管理が可能で、さらにはソーシャルにフィードもしてくれる。デバイスにこだわらずに、「ネットを横断したものを作ろう」と思い切ることができたきっかけです。「これ楽しいよ」と人に紹介したくなるものをつくれば、たくさんの人に触れてもらえるんだ、と迷いがなくなりました。

森永:オープングラフになったことでFacebookやツイッターも広告は「運用」されるものになりましたが、広告やキャンペーンの企画は「消えもの主義」な考え方をすると感じています。私は前職がSIer(システムインテグレーター)なので、システムの保守運用費で成り立つビジネスモデルを発想しがちです。ホームページなども運用がスタートしてからが仕事という思考回路ですが、広告会社では仕事が手離れしないことは"悪い"という感覚があります。広告史で言えば、バナーは一発屋、SEOなどは運用型広告で全く違う考え方ですね。

福田:バナーで言うと、朴さんが2011年に作ったNIKE iDのバナーはすごかった。僕もバナーを作るのが大好きだったけれど、あれを見た時は「負けた」と思いましたよ。

朴:我ながらよくできていました(笑)。mixiアプリ上でカスタマイズしたNIKEのシューズを、バナーとして友だちのページのトップに表示できるようにしました。それを見た友だちは「自分の友だちがナイキとコラボして、靴を出している!」と驚いて、バナーをクリックし、友だちがデザインしたシューズに「いいね」するんですよね。結果、自分のデザインしたシューズにたくさんの「いいね」がつくので、そのモデルを買ってくれるんです。この施策を展開した期間、日本のNIKE iDの売上は世界1位だったようです …

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