コピージアムで行われたのは、U35の若手クリエイターを代表する電通の村田俊平さんとTBWA\HAKUHODOの栗林和明さんの対談。2人がこれまでどのようにキャリアを組み立ててきたのか、自分らしい企画スタイルをどう身につけてきたかが、さまざまなエピソードと共に紹介された。
キャリアを3期に分けて振り返る
村田:栗林さんが名乗っている、「BUZZ MACHINE」って何なんですか?
栗林:博報堂からTBWA\HAKUHODOに異動した時に、肩書を自分で何でもつけていいと言われたんです。最初は「インタラクティブプランナー」で提出したんですが、上司に「もうちょっと役割がわかりやすい名前にしてみたら?」と。深夜1時くらいにヤケクソになって、めっちゃわかりやすくしてやろうと考えたのがBUZZ MACHINEです(笑)。
村田:でも栗林さん、マシーン感があまりないですけど(笑)。
栗林:希望を込めてつけた名前なんです。バズって狙うのがとても難しい。だから安打製造機的に100%当てられたらすごい価値だと思って。それでマシーンと言ってます。ちなみにBUZZ MACHINEの代案としては、先輩から「バイラルエンペラー」を推されてました(笑)。
――今日はお2人にこれまでのキャリアを3期に分けて説明していただきます。
村田:僕の1期は「欲望期」でしょうか。入社2年目で転局試験に合格して、クリエイティブ配属になったんですが、同期はみんな優秀で、さらに上の世代にも超優秀な人たちがたくさんいて。圧倒的な競争の中で、不満を溜め込んでいました。この頃は、志を同じくする同期と傷をぺろぺろと舐めあったり、あとは友人の結婚式の寿ビデオをひたすら作ったりしてましたね。寿ビデオは企画も演出も編集も自分でするので、100時間ぐらい編集をネチネチやってみたり、ここで経験したことが意外に後のCMでも生きてきます。
栗林:僕の1期は「ゴミ期」です。
村田:ゴミって(笑)。
栗林:僕は、中学2年生の時になぜか広告の仕事をすると直感で思ったんです。カンヌ広告祭のニュースを見て、このステージに立つ気がすると。ただ、全く優秀じゃなかったので、大学にはギリギリで入れたものの、博報堂のインターンにも落ちてしまい、このままではやばいと、大学を休学してコピーライター養成講座に通いました。
村田:休学してまで行くものじゃないんじゃないですか?(笑)
栗林:スイッチを切り替えたくて。その他にも雑誌づくりなど色々やって、やっと人並みの戦闘力になって、またギリギリで博報堂に滑り込んだんです。でも、同期はめちゃくちゃ優秀で。基本スペックの低い僕は、コピーや企画を何回出しても虫のように見られるばかりで…。鳴かず飛ばずで、自分は何も専門性がなく、何者にもなれないと毎日不安に思っていました。ただ、ひたすらFacebookページの使われ方をまとめてはレポートすることだけは徹底してやっていましたね。
他の人がしていない戦い方で勝負する
――そんな中、お2人にとっての「転機」とは?村田さんは「希望期」に入るんですね。
村田:僕みたいにお調子がよくて、おしゃべり野郎で人懐っこいと、「オマエは営業向きだ」と言われるんですよ。このまま東京にいたら営業行きは時間の問題だと(笑)、正直少しは逃げるように九州に行ったところもありますね。そこで作ったCMが話題になったり、受賞したりして、CMプランナーとしてやっていけるのではないかと希望が見えてきた時期です ...