年齢、性別問わず、全ての生活者には必ず「生活動線」がある。生活とは時間と空間が織りなす一つの線の上を、動いたり止まったり、時にしゃべったり、沈黙したりすることの連鎖...つまりは24時間×365日の暮らし方、活動の仕方の流れといえる。100人が100通りの「生活動線」を持っているように思えるが、分析していくと実はいくつかのパターンがあることが見えてきた。世代・時代・ライフステージなどによって構造化しうるパターンだ。このパターンが分かれば、「例外」も見えてくる。本連載では全6回にわたり、代表的な「生活動線」のパターンを解説していく。
「生活動線」とは24時間365日、その人がどのような行動を累積してきたか、その軌跡のことである。その軌跡を分解して、読み解く時に一つのパターンとなりうるのが、シーンにおける「人構成」の視点である。具体的にはそれが一人で構成されているシーンなのか、複数の「人構成」を持ったシーンであるのかを見ていくことになる。
複数シーンは、さらにいくつもの典型的パターンに分解することができる。夫婦なのか、恋人同士なのか、子供と一緒なのかといった類型である。とはいえ、まず一義的に重要なのは一人シーンなのか、複数シーンなのかをことになる。
「生活動線」を整理していくと、実は一人シーンという時間の配分がとても多いことがわかる。セグメントごとの特徴もここに、明確に現われるといっていい。前回からの続きでいえば、シニアという世代は、この一人シーンがどのセグメントよりも多いということになる。
仕事や子育てに関連した「義務的時間」から解放されるということは、単純に一人シーンの増大を生みだす。加えて何度も述べてきたことだが、夫婦二人の暮らしというものはシングルがミックスして生活している<シングルミックス=ミングルライフスタイル>なのである。
家庭外動線は当然であるが、ホーム内動線もほとんどがシングル化しており、一致することが少ない。食事のシーンが唯一の動線の一致点、つまりシーンの構成要素が一人から複数に転換するポイントである。
だが、この複数シーンになっている食シーンの内実もむしろ<一人シーン>の集積であるとみた方がいいともいえる。この詳細は後で述べるとして、「生活動線」を見るにあたって重要なのは<一人シーン>の価値の重さということである。
「シニア一人飯」の誤解
<一人シーン>というとイコール「孤独」、「一人の淋しさ」という概念や心理状態を想定してマイナスのらく印を押したがる。ましてや、一人での食事シーンなど「侘しさ」の代表とでもいいたくなる。とりわけ、シニアに対してそうしたがる。