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広告・メディア界の礎を築いた人々

昭和を駆けた稀代の名司会者「大橋巨泉・前田武彦」

岡田芳郎

テレビが影響力のある最大のマスメディアであることに疑いの余地はない。しかし、1990年代以降のインターネットの台頭から、その王権が徐々に陰りを見せはじめているのも事実である。日本でテレビが放送された1953(昭和28)年から、ちょうど60周年の節目を迎える2013(平成25)年。草創期に活躍した先人の志と業績をたどり、原点に立ち返ることで、テレビ、そしてマスメディアの新たな可能性を探る。

民放クイズ番組歴代1位を記録

大橋巨泉(1934(昭和9)年3月22日~)は、強い個性を持ったマルチタレントである。放送作家としてキャリアを積み、数多くのテレビ番組の司会者として人気を集めた。陽性のエネルギッシュなキャラクターと、相手を自分のペースに巻き込む押しの強さと才覚で、それまでにない存在感を発揮した。

「11PM」(NTV系)は、1966年4月から巨泉がはじめてテレビ司会者として活躍した番組である。マージャン、競馬、釣り、ボウリング、ドライブなど趣味の楽しさを伝える、巨泉のテイストにピッタリの遊び心にあふれた番組で、たちまち番組の顔ともいえる存在になった。「野球は巨人、司会は巨泉」というキャッチフレーズを使い、朝丘雪路との名コンビがユーモラスで楽しい雰囲気を醸し出した。

巨泉は記している。『「11PM」は僕をタレントにし、僕の生活の一部になってしまっている。忘れられないのは、1968年3月31日に、米国のジョンソン大統領によって北爆停止命令が突然出された時、その晩急遽プログラムを変更してナマの強みを見せた』。これは「11PM」が単なる遊びの番組ではなく、“夜のニュースショー”の性格を持っていることの証だった。この成功で“巨泉・考えるシリーズ”が始まり、性教育や社会福祉などのテーマが取り上げられた。エンターテインメントだけでなく時に社会性・政治性のある硬い話題も取り上げる幅の広い番組になっていき、「政治からストリップまで」がスローガンになった。

「11PM」の司会が軌道に乗った1969年、巨泉の大ヒットCM「ハッパフミフミ」が生まれている。この年、「大学・高校生から見た司会者ベストテン」で大橋巨泉は1位になっていた。2位芥川也寸志、3位三橋達也、4位玉置宏、前田武彦と続く。パイロット萬年筆は当時経営不振で800人に上る解雇が予定され、会社と組合は対立していた。

そういう切羽詰まった状況でのCM制作だった。当初予定していた台本を見て巨泉は、「これで会社立て直せるの?」と広告会社担当者に聞き、俺のアドリブでやらせてくれと提案した。

スタジオにはセットも何もなく、ホリゾントに譜面台とスツールだけがあり、そこで撮影をはじめた。「みじかびの、きゃぷりてぃとれば、すぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ」と言ってその後に「解るね」と付け加えた。みんなキツネにつままれたようだったが、結局、このナンセンスな言葉遊びのCMが採用された。パイロットは賭けに出たのである。「はっぱふみふみ」は話題になり、万年筆「パイロットエリートS」は爆発的に売れ、業績は回復し、800人の首はつながった。数カ月後のパイロット社の「感謝パーティ」で社長から巨泉は感謝状と記念品を受け取ったが、そのあと組合委員長からも感謝の辞が贈られたのにはさすがの巨泉も驚いたという。1本のCMが企業を立ち直らせた稀有の例であり、新聞、雑誌などの記事に取り上げられたもっともパブリシティ効果のあったコマーシャルだった。常識的な広告のセオリーを覆した、大橋巨泉の個性と機知が大衆の心を動かしたのだ。

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