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広報担当者の事件簿

ライバル会社にわが社が買収される――広報はその時、どうする?

佐々木政幸(アズソリューションズ 代表取締役社長)

    ゲーム会社トランザム買収騒動〈前編〉

    【あらすじ】
    穏やかな金曜の夜を過ごしていた、ゲーム制作会社トランザムの広報担当・矢崎剛は、広報部長の本川文雄からの突然の電話に耳を疑った。「トランザムが買収される」──? 翌日休日出勤した矢崎は、本川から複数の新聞社から社長取材を申し込まれていると聞かされる。嗅ぎつけられたか──。なんとか取材を先延ばしにできないか模索する矢崎だったが……。

    「瀬戸際の対応」

    〈30日前〉
    「はい、矢崎でございます。……いつもお世話になっております。少々お待ちいただけますか。あなた、本川部長から」妻が送話口を片手で押さえながらコードレスホンを差し出す。「部長から?」たった今まで芸人や女性タレントが出演するバラエティー番組を、ソファに寝そべりながら観てゲラゲラと笑い転げていた。こんな時間になんだろう。壁に掛かっている時計の針が夜10時を指そうとしている。

    「はい、矢崎ですが」「おー、本川だけど」「どうしたんですか、こんな時間に」と言ってはみたものの、こんな時間にしか話せない内容だから、こんな時間にかけてきたのだろう。「会社では話せない内容だから電話させてもらった」「でしょうね」「でしょうねって、お前、相変わらず軽く言うなあ」。受話器の向こうから笑い声が聞こえてくる。

    「買収だ」。「で、担当は誰です?」と軽い口調で応じてみる。「今、俺のかけた電話に出ている男だ」と本川が応じる。

    いつもの波長がそうさせる。株式会社トランザムは、1972年に初代社長の番場信弘が創業した会社で、80年代後半、家庭用ゲームソフトの開発で爆発的な人気を博し飛躍的な成長を遂げた企業だった。一時は売上高で2000億円を超え、業界大手にのし上がったが、7年前に番場が急死して以降、ここ数年は携帯用ゲームに押され、思うような売上が残せず2期連続で営業赤字に転落していた。

    本川文雄はトランザムの隆盛期を知る数少ない社員で、広報と宣伝部門を長きにわたり担当してきた、いわばトランザムの生き字引のような男だった。広報部長になって5年の本川は、それまで宣伝部一筋でゲームソフトのPRイベントで尽力していた。そんな時に新人で配属されてきたのが、矢崎剛だった。それから15年。矢崎は本川を師と仰ぎ、本川は矢崎の仕事に対する「苦境から逃げず、どんなことにもめげない、あきらめない姿勢」を認め、自分が持ちうる限りの経験を教示してきた。

    “言いなり部”と揶揄されていた広報部を、戦略部隊に変貌させたのも本川と矢崎だった。矢崎も広報部に異動して5年。本川が広報部への異動を命じられたとき、当時広報を担当していた専務にたった一つの我儘を聞き入れてもらったのが、矢崎を一緒に広報部へ異動させたことだった。

    「買収ですか…。今度はどこを買うんですか?」「…買われるんだ」「……!明日は何時に出社すればいいですかね」。受話器を握りながら呆然としていた矢崎だったが、何とか軽い調子の声を絞り出す。さっきまで観ていたチャンネルで、梅雨の晴れ間が現れますと天気予報士が告げていた。だから明日は久しぶりに、妻の絵美と墨田水族館にでも出かけてみようかと相談したばかりだった。矢崎の様子を察した絵美は、あきらめの表情を隠さない。今回が初めてではないからだ。

    「土曜日ぐらい少し遅めにしよう。10時でいい」という本川の言葉に、了解ですと言って電話を切った。「こちらも了解です!」と矢先が謝るより先に絵美が笑う。「すまん」「仕方ないじゃない!魚は逃げたりしないでしょ、ね」。頑張るときに頑張らないでどうすんのよ、と背中を叩かれた。



    〈29日前〉
    天気予報士を悩ませる梅雨時期。「太陽が顔を覗かせる」と言ってはみたものの、やっぱり傘が必要だったことは往々にしてあるのだが、今日は予報士もほっと胸を撫で下ろしているだろう。真夏のような日差しが降り注いでいる。いつもなら車のエンジン音やオフィスワーカーの足早に移動する姿が騒々しいオフィス街。矢崎剛は10時の集合に合わせ、閑散とする通りをゆっくり歩いていた。昨夜、本川が言った「買われるんだ」という言葉が頭から離れない。

    中学生の頃からトランザムのゲームが好きで、大学に入ると友達と毎晩ゲームに興じていた時期があった。そして、好きなことを仕事にしたいと思っていたとき、トランザムの新卒採用の求人情報を見つけ、採用試験を受けた。入社後は宣伝や広告を担当したおかげで“好きなこと”を仕事にできる喜びがあった。広報の仕事もそうだ。ゲーム会社に入社しても、商品の魅力を伝えられる部署に配属される人間は限られている。宣伝と広報は似て非なる仕事ではあるが、商品を自分の手でPRできる点では共通している。矢崎はそこが自分に合っていると思っていた。「いったいどこに買収されるんだ…」想いふけりながら歩く矢崎の目に、いつの間にか親しみのある会社のロゴマークが見えた。

    「オンザウェイですか…」「昨日、役員会で説明があった」。オンザウェイはトランザムと並び、家庭用ゲームソフトメーカーではメジャーな企業である。ここ数年、家庭用ゲームソフトの市場は、ヒット商品がないことや、スマートフォン用ゲームの急速な伸長で右肩下がりを続けている。トランザムも指をくわえてみていたわけではなかったが、家庭用ゲームソフトの開発にこだわり、スマートフォン用ゲームへの参入が遅れた経緯があった。一方オンザウェイは、いち早くスマートフォン用ゲームの開発に取り組み、成果をあげていた。

    「まだ決定したわけではないが、株式の交換比率も具体的に詰めの段階だ」トランザムが入居するビルの18階。広報部のシマには今、本川と矢崎しかいない。このタイミングで、“買われる”話などほかのメンバーにはしたくない。

    「社長取材の申し込みが何社か入ってますよ」「東京経済と毎朝、暁か」「ですね」「社長とは調整したのか?」「月曜日に社長と決めることにしてます」「月曜の朝一で調整してくれるか」「かしこまりました」。座っていたイスから立ち上がり、矢崎が仰々しくお辞儀をする。

    「こんな時でもお前は気楽な奴だな。買われるかもしれないって言うのに…」「暗くなっても仕方ないじゃないですか。なるようにしかなりませんよ」と首を竦めながら両手を広げ、おどけてみせる。真面目に答えろと言う本川に、「はいはい」と応じる。傍から見れば上司に対する受け答えには見えない不遜な態度だが、こんな時、矢崎が考えていることが真逆のことだと本川は知っている ...

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