夕食の買い物は済ませたはずなのに、つい肉屋の前にくると、その「昔ながらの」のフレーズに足を止めてしまう。
こんな経験はないだろうか。
週末、あなたは近所のラーメン屋で昼食を済ませ、帰りしな商店街でもブラブラと歩いている。ふと、肉屋が目に入る。店のコーナーの一角でコロッケを揚げている。よく見る光景だが、そこにあるPOPを見て、思わず足が止まる。
「昔ながらのコロッケ」
なぜだろう。無性にそのコピーに惹かれる。たった今、ラーメンを食べてきたばかりなのに、今すぐそのコロッケを買い、アツアツのやつを頬張りたくなる。
結局、あなたは誘惑に負け、紙袋に入ったそれを店先でハフハフさせながら食べることになる。そして正気に戻る。
「普通のコロッケじゃないか」
そう、昔ながらの~と言いつつ、大抵の場合、それは普通の代物である。昔ながらのコロッケ、昔ながらのナポリタン、昔ながらのカレーパン......冷静に考えると、要はスタンダードな商品ということ。何かを期待するほうが間違っている。それにしても、なぜ僕らは「昔ながらの○○」というコピーに弱いのだろう。
それは、人間の本能である「保守と革新」を求める行動と関係があるかもしれない。僕らは新しもの好きである反面、まるでメトロノームのように、時にその反動で妙に古いものにも惹かれる。若手お笑いコンビの斬新なコントに爆笑したかと思えば、名人の演じる古典落語に唸うなる。昨今はやりのスイーツのフレンチトーストにハマったかと思えば、昔ながらの「赤福」にも手が伸びる。
そう、保守と革新。要するに僕らは両極端が好きなのだ。創作落語やスーパー歌舞伎が今一つ広がらないのも、伝統はとことん古くあってほしいという"極端"を求める僕らの本能かもしれない。
そこで「昔ながらの○○」。それは、単なるコロッケやスパゲッティナポリタンを瞬時に魅力的な商品に変えてしまう魔法のフレーズである。普通にコロッケやナポリタンとして提供するよりも、はるかに客の食いつきが違う。中身は、何ら変わらなくても、である。
もし、あなたが新規商品や新規事業の開発を命じられて、何もアイデアが浮かばないのなら、その逆──とことん古い伝統を探ると、何かヒントがあるかもしれない。同業他社が新しい方向性を打ち出していたら、必ず反動として、客はその逆も求める。人は新手のカニクリームコロッケに舌鼓を打つ一方、昔ながらのコロッケにも惹かれる動物である。
草場 滋(くさば・しげる)メディアプランナー。エンタテインメント企画集団「指南役」代表。テレビ番組「逃走中」を企画。著書に「『考え方』の考え方」(大和書房)、「情報は集めるな!」(マガジンハウス)、「一流の仕事人たちが大切にしている11のスタンダード」(実務教育出版)、「テレビは余命7年」(大和書房)ほか。 |